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[memo]人と関わるということ。SNSの在り方

SNSと言うのはあっという間に人と人との関わりを紡ぎ出す便利な道具です。が…時として利用する側の人間を疲弊させるものでもあります。

このサイトを復活させようと思ったきっかけも、ある意味SNS疲れに起因するというのもありました。

もちろん、Facebookでつながって方々は著名な方、カメラマンの方、素晴らしい写真の腕を持つ方…Facebookをやっていなかったら到底お会いすることもなかったと思います。とても貴重な経験、教訓を与えてくれるものです。その御蔭で、2014年は自分自身の写真の在り方を見直し、全てを一回リセットし、新たに学ぶためのきっかけを得ることが出来ました。

写真は、2014年の丘珠航空ページェント。北海道の青空は強い輝きを持つブルー。

写真は、2014年の丘珠航空ページェント。北海道の青空は強い輝きを持つブルー。

そのつながりに感謝し、学ぶことの大切さ、謙虚さを知るというのはとても重要であり、これから先も大切にしたいと思っています。己が慢心を制することができる存在であるとも言えます。

それとは別に、稀に衝動のようにやってくる抑圧感、閉塞感もSNSは帯びている。「誰の意見も要らない。コメントも要らない。ただ自由に、他人の杓子定規にはまらない大胆な構図、レタッチで遊び心を持っていたい。一度でいいからその枷を外してみたい」と。

誰かの目を気にしていると、その小さな希望が簡単にしぼんでしまう気がしてならないのです。

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小松の306飛行隊特別塗装。小松基地航空祭2014にて。

この小松の写真。この写真を撮った時、サンニッパにテレコン2倍+APS-Cで戦い続けて己の限界を知ると同時に、ここまでは戦えるという自信を得ることができたのです。一瞬矛盾したような考え方ですが、己が機材と腕の限界を知ることは、自信にもつながるのです。そしてひとつの野望にたどり着きました。まだ実行はできていませんが…

とにかく、そういった自分自身との対峙を阻害しかねない、そんな要素もSNSにはある。要は、常に他人基準になりがちだと感じます。無難なラインを求めるならば、そんな組み合わせで、それも基地に入らず空港側で撮影しようなどとは思わなかったはずです。

千里川(ITM)フィッシュアイ+5D3にて。

千里川(ITM)フィッシュアイ+5Dmark3にて。

もう1つの写真と関わりの深いSNSがInstagramです。このウェブサイトにも貼っていますが、手軽にiPhoneからアップデートできるという点で、かつて自分が続けていたMobile Diaryに似たものを感じ、今では完全移行したような形になっています。Instagramの楽しみは、数多くあるアーティスティックなフィルター群、スクエアに限定された形状(アプリケーション経由ならば他のアスペクト比にして背景を塗り粒といった処理も可能ですが)、そしてお互いに「いいね」しあうというSNS的要素も重要なところです。Instagramの使い方は上記にあげるような仕様に沿って行くだけでいいのですが、その意図するところは人それぞれといったところ。ひたすらiPhoneで撮った写真をグリグリとフィルター加工して載せるもあり、かと思えばいまやカメラも多くが搭載されているWi-Fi経由で取り出したデジイチ画像を速報的に載せるといった使い方も散見されます。どちらかというと、私はそのアーティスティックなフィルターの数々に惹かれて、Instagramをデイリーユースにしたいと考えていました。

個人的にもその用途に関しては迷うところがないかと言われれば嘘になるでしょう。普段から使っているデジタル一眼レフカメラ(7Dと5D3)はともにWi-Fiは非搭載であり、メディアにWi-Fiがついたものはどこか記録への不安定さ、安心といったものにかける気がしてあまり使用していません。そのこともあってか、私は速報的に飛行機のデジイチ写真をUploadする機会を逸することが多かったのです。そのこともあって、Instagramにはアーティスティックな面を求め、速報写真でInstagramが埋め尽くされることに嫌悪を抱き始めました。

その裏には、焦りもなかったわけではなく、私は「速報的なものが撮れない」人間だと自分を追いやりたくなかった。私だって、媒体さえあればいくらでも速報写真を出すことができただろう。ドヤ顔して戦闘機の判押しのような写真を並べるだけの人間に踏みにじられたくなかったのかもしれません。

もう一つ。「日本的な」Instagramの繋がりを重視した束縛ルールという要素。それはハッシュタグで代表されますが、月末になったら同じように飛行機の尾翼だけを載せる「おしり祭り」、月初めになったら「プッシュバック祭り」その祭りに参加しなければならない的な要素に嫌悪感を覚えました。ここまでひどい「タグ」くくりと言うのもは、やはり日本的な群れるというところに行き着くのではないかと。

嫌ならば、離れればいい。それもひとつの道、選択肢なのかもしれません。しかしなかなかその居心地の良い束縛感のあるSNSから抜け出すのは難しい。

このサイトにこもりながら、ボチボチと息抜きしながらやっていこうと思います。